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 英語・日本語・言葉(最終更新:2004年1月)

私は米国人よりも英語が堪能?



ShopRite Palisades Park店、アメリカの食材はほとんど揃う。TOFU NATTOなども一応あるが、高い。日本の食材はミツワダイドーハナルム(韓国系)の方がいい。

 私は米国人よりも英語が「堪能」だ。と自信を得たことがあった。・・・などと大それたことを書いて「えっ!」と思われるかも知れない。・・・

・・モノは書きようである。

 先日このようなことがあった。ShopRite (米国東海岸の大手スーパーチェーン)に買い物に行ったときのことである。レジに並んだのだが、私の前に老婦人がいらっしゃった。もう相当な歳で、こういうスーパーに車で買い物に来たのだろうかと思うと、哀れにさえ感じるくらいのご婦人である。

  店員が一生懸命クレジットカードを指差し、カードリーダーにスライドするように言うのだが、そのご婦人、要領がわからないらしい。もちろん店員がカードリーダーをスライドさせることもできるのだろうが、それはアメリカ、よけいなお手伝いをしてはならないのかもしれない。・・・だろうか、よくはわからない。・・・とにかく、その女性店員は大声でゆっくりとした口調でその米国のご夫人に言っているのだが、そのご婦人、耳が遠いのか、理解力が劣っているのか、なかなかわからないらしい。その老婦人もどうしたらいいのか、店員に英語で尋ねているのだが、要するに話がかみ合っていないというのが、正直なところらしい。

 挙句は、私に同調して欲しいとでも言うように、私の顔を見て何かしゃべっている。・・・
(おばあさん、私は英語力がないんだってば。・・・)、苦笑いで応えた。
レジのお姉ちゃんも私の顔を見て肩をすくめている。

  こういったことは何も米国ばかりではない、老人大国日本でもよくある光景ではある。結局そのご婦人はチェック(小切手)で買うことにして、かばんから小切手帳を取り出し、書き始めた。昔ながらのこの方法ならばできたのだろう。

 さて、英語力の問題の話ではあるが、その店員の言っていたことは英語音痴の私でさえもよく理解できた。すなわち、私は何十年米国に居住しているであろう米国人(そのご婦人)よりも英語のヒアリングについては長(た)けていたということができないだろうか。?その婦人が耳が遠かったのかもしれない。技術的なカードをスライドさせるという意味がわからなかったのかもしれない。英語だって単にしゃべる・聞くだけではなく、理解し、伝達する言葉である。相手に伝わらない限り意味をなさないのだ。

 思えば、米国人だってまともな英語を話しているのか、怪しいものだ。日本人だって、日本でまともな日本語を話せるひとがどれくらいいるだろうか。?

  昔、日産のCMでロイ・ジェームスという米国人がよくテレビに出ていた。(私の歳がばれてしまう話だが。・・・)「技術の日産がお送りする****」とか日本人よりも堪能で早口の日本語でしゃべっていたものである。日本人よりも日本語がうまい外人は多い。我々が知らない諺を知っていたり、文学の知識を持っていたり、歴史などにも詳しかったりする。その逆も真なりである。米国人であるからといって、正しい英語、まともな英語をしゃべっているとは限らないのだ。

 我が娘もElementary SchoolでReading(国語)を習っている。その先生がイタリア系。娘やクラスの同級生の判断では、ちょっと、国語の先生には不適格。変なイタリアなまりの発音が身につきそうだとの話である。先生の読む英語を聞き取るテストがあるらしいが。その時はみんな、「またかよーーー。もうやめてくれよーーー。」という感じらしい。

  よく考えてみて欲しい。日本にいる我々でも一日の生活に出てくる会話を録音して再生してみればわかるだろうが、文法的、用法的には間違った使い方をしているものが多いはずである。生活のことばと言えば、単語や「ブロークンジャパニーズ」で通じる場合も多いからだ。むしろ文法的に正しい会話を交わすこと自体がほとんど難しいのである。
「あれ、どこやった。?」
「あなたが・・・えーと、あったわよ。?変ね。私がさっき。その上に・・・」
てな具合である。

  人はしゃべりながら、頭で考え、同時に会話文を組み立てる。だから、会話の途中で「時制」「人称」が変わることだってあるのだ。

それに日本では最近「私的(わたしてき)にはいいような気がする。」とか、昔の国語学者が頭を抱えたくなるような表現も自然とでてくるご時世である。

 アメリカにもそれに似たことがある。学校から課外授業に関する通信文が届いたのであるが、そこに
「CRE8IVE」という表現がキャッチコピーとしてあった。「CREATIVE」という意味である。確かに面白いが、言葉を教える学校のプリントに、この表現はあまり感心しない。その他、「4 SALE」(for sale:売り出し中)、「4U」(for you)なんてのがある。電話番号で「0:ゼロ」はよく「O:オー」と発音される。

 米国に来て、いろんな手続きをする上で英語をどうしてもしゃべらなくてはいけない場合は数知れず多い。そのときは頭の中でリハーサルをして、文章を組み立てるのだが、いざ、会話となると、「三単現のS」やら「関係代名詞」やら「関係副詞」やら「時制の一致」などはどこかに飛んでいってしまう。こちらで電話の開設申し込みをしたときは電話で話したのだが、(電話開設の申し込みは電話でするのが基本・・・矛盾とも思えるが・・・)もう額から汗がだらだら垂れてしかたがなかった。パニックである。「パードゥン?(Pardon?)」の連発である。

  米国ではいろんな手続きで、書類ではなく、電話で申し込むようになっているケースがよくあるので、大変である。電話だと相手の表情もわからないからなおさらだ。相手が質問をしているのか、質問に答えているのかさえわからない。

  米国では歩いていると車が脇に止まって、ドライバーから道を聞かれることが多い。私の英語が通じるはずはない。最後はボディーランゲージで道を指差したり、腕を振り回したり、肩をすくめたりして終わりである。エンジン音、通りの雑踏の音で、英語自体も聞こえない。適当なものである。

 英語を流暢に話せることに越したことはないが、要は相手と「会話」ができることではなく、「コミュニケーション」ができることがもっとも重要である。と、思うのだがどうだろう。?

  皆様も日本語でいいから、アナウンサーのように文法的、語法的に間違いなく、方言なしの標準語でしゃべっているかテープレコーダを一日回しながら、チェックしてみたらよろしいかと思う。台本でも用意してしゃべらないかぎり、難しいはずである。

英語をしゃべる練習をする前に日本語をしゃべる練習をしたほうがいいのかもしれない。



「ヒアリングHearing」「スピーキングSpeaking」「リーディングReading」「ライティングWriting」

 韓国での生活で実感した内容なのであるが、その内容がこの米国でもあたはまるのではないかと思う。

 言葉をならうには順序が大切だということだ。その順序とは「ヒアリングHearing」「スピーキングSpeaking」「リーディングReading」「ライティングWriting」-H-S-R-W-である。私はこれを韓国での生活で実感した。

 済州島が私の韓国での最初の任地であった。韓国語はからっきしだめ。それに、済州島は韓国人でもわからないほど方言のひどいところ。済州島の人の言葉がわからないので、韓国人に聞くと、
「わたしにもわからない。???」
なんて、答える。 そんな中に韓国語の「カナタラ(日本語のあいうえお)」程度しか習ったことのない私が飛び込んだのだ。宿舎にいっしょに住んでいる同僚の韓国人も私も無口な方で、お互いに言葉を教え、習うという感じではなかった。

  で、どうしたかというと、当時はコンピュータもインターネットもない時代。ひたすらテレビを見つづけた。

 言葉を習うにはテレビニュースが一番いい。なぜならば、アナウンサーがしゃべっている言葉と、それを裏付ける画像とそしてそのキャプションなどの情報、聞く内容と見る内容がすべて一致しているからだ。しかもアナウンサーは標準語で、正しい言葉使いをするように訓練されている。

ドラマではこうはいかない。ドラマでは二人、数人での会話でストーリーが次第に構成されるという傾向がある。たとえば、日本のドラマをご覧になればわかるだろうが、画面に二人がいて何か話しているとする。と、話の内容は大概、その場に居ない第三者のことがらを話していることが多い。すなわち、
「あの人はひどいひとよ。!」
とか、
「あの人って、素敵よね。!」
てなぐあいだ。話題の「あの人」はその場に居ないから、ドラマを見ている人は前回までのストーリーなりを理解していないと、すぐには意味を理解できないことが多い。
それにドラマでは方言やら、感情的な言葉が出てきて、それが外国語である場合、なかなか我々には理解するのがむずかしい。

 さて、 済州島での話ではあるが、とにかく 、最初は二人で会話を特別交わすこともなく、ただ、ただ、テレビを見つづけたのだった。

 ところが、ある日、まさに、ある日突然に、いままでわからなかったハングルが急に頭の中に理解できる言葉として流れこんできたのだ。これはとても面白い経験であったし、自分でも驚いた。そして、そのアナウンサーの言葉をまねして、私は話をするようになってきたのである。

  これくらいまでくればもうしめたものだろう。急速に語彙が増えていく。そしてついには韓国語でものごとを考えられるようにまでなってきた。そして次はリーディングである。聞き言葉、話言葉を具体的な文字として、捉えなおすのである。そうすると、いままで無意味に思えてきた、商店の看板やら、新聞の見出しやら、張り紙の意味がわかるようになってくるのである。自分から、
「えーっと、これはこういう意味だから。・・・そうか、そうか。」
などと、自分で、文字を追うようになってくる。 そこまでくれば、次にハングル文字で文字を書くことは自然の成り行きである。

 話は変わるが、韓国語ほど、日本語に近いことばはない。語学的にはアルタイ語族?だったかに属するのだと思うが、主語、述語の位置、漢字熟語の構成など、ほとんど、韓国語と日本語は同じである。
「高速道路」は韓国語で「コソクドロ 」、
「約束」は「ヤ
「契約」は「ケヤク」
「関係」は「カンケ」
である。 この漢字と読みの関係を一通り覚えてしまえば、自分で語彙を増やすことも難しくないのだ。
(ただし、韓国で、アメリカのことは「美国」「ミグ」と言う。・・・漢字が違う例もいくつかはあるのだが。)

 さて話を元に戻して、この、一連の「ヒアリングHearing」「スピーキングSpeaking」「リーディングReading」「ライティングWriting」-H-S-R-W-という順番は、実は赤ちゃんが成長していく過程で通過していく段階である。赤ちゃんは言葉はしゃべれない。ましては文字を読んだり、書いたりすることなど不可能である。そうい時期はお母さん、お父さんの話すことばを聞き流すことしかできないのだ。ただひたすら聞き流す。いわばヒアリングマラソンである。そして何ヶ月か過ぎた後に「マンマ!」とか、急に言葉をしゃべりはじめる。そして、少し大きくなって幼稚園くらいになると、しゃべり方やら、言い回しまでがママの口癖に似てくるのである。ままごとの中で「あなた、だめじゃないの!」などとママの口癖をリピートしているのだ。そして、時間が経つと、文字から情報を得ることを覚え、そして最終的には自分で書くところまでいたる。

 「ヒアリングHearing」「スピーキングSpeaking」「リーディングReading」「ライティングWriting」というこの一連の順番が重要なのだと私は思う。

 日本の英語教育は最初が「リーディングReading」「ライティングWriting」のことが多いように思う。すくなくとも私の中学校・高校では「リーディングReading」「ライティングWriting」が第一の教育であった。

 人間が成長するにしたがって言葉を学ぶ過程が重要なのだと思う。
 だから、私は今日も仕事をしながら、米国のFMラジオを聞き流している。



米語の文字文化

 米国人は意外と文字に頼る、言葉に頼る傾向があると感じる。これは地図や図形文化になれてしまった私にとっては少なからず窮屈さを覚える。

 つまり、こういうことだ。たとえば、マニュアル。コンピュータソフトやら、電子機器の取り扱い説明書に至るまで、日本にいたときは説明するのによくイラストを使ってあるものが多かった。アニメに慣れたわれわれにとってはとてもわかりやすい。「一目瞭然」「百聞は一見に如かず」のあたりだろうか。

 ところが米国では、たとえば、ある場所までの道順を示すのに「文章」で説明するケースがやたら多い。「46号線を東に走り途中で80号線に乗り換え、北に向かう。63番出口で降りて最初の信号を右折・・・」てな具合である。もちろん、そういった道順を文章で説明する利点はある。メモの面積が小さくて済むからだ。そしてナビゲータにそれを読み上げてもらえば、いいのだ。だからドライバは前方の表示に注意さえすればいい。これが地図となればそういうわけにはいかない。ドライバー自身が地図を見なくてはいけないのだ。だが利点もある。先に書いた「一目瞭然」「百聞は一見に如かず」である。

 まあ、道順に至ってはそういったことはあるが、コンピュータソフトについて言えば、ヘルプで出てくる解説も文章に頼って「ファイルメニューからプルダウンして、基本設定を選び…」と文章でしていることが多い。やはりイラストで説明されるほうがわかりやすいのではないだろうかと思う。

 インターネットで、 米国のホームページを見ていてもやたらと文章が多いホームページが多いのである。



日本語のすばらしさ(島と海)

 私は以前、会社で英会話を習っていたときにアメリカ人の先生よりこのような話を聞いたことがある。日本語はすばらしい言葉であるとアメリカの文学者が言ったというのである。

 うれしい話である。私も思うがたとえば、短歌、俳句といったごく短い単語で詩的表現をする手法を発明した、日本人の才能には誇りたいものがある。こちらの小学校で我が娘も「HAIKU」という言葉を聞いたことがあるそうだ。「ORIGAMI」「HAIKU」などはこちらでも日本の文化として教えている。

 さて、このときのその文学者の言った話はどういうことかというと、日本語は「あたかも海の中に島を見るように美しい。」というのである。しゃべり言葉ではなく、漢字とかなのまじった図書を読む場合の話である。すなわち、日本語はその文章が、ひらがなの「海」の中に漢字の「島」がところどころ、浮かんでいるので、日本三景の「松島」のように美しくバランスが取れ、また、拾い読みもしやすいし、速読もしやすいというのである。

 そうかもしれない。こちらで英文の新聞を読むこともあるが、英語自体になれていないこともあるが、日本語の文章にあるような「松島効果」が期待できない。なかなか速読、拾い読みができないのである。日本の新聞はアルファベットにあたるひらがなとパターン認識的な漢字が適度な割合で、まざっているからいいのだ。

 中国語は逆にパターン認識の漢字を発音に割り当てているから、大変だ。パターン認識された漢字の意味合いが本来の意味と大きく異なっている場合があるからだ。強弱が無いから飛ばし読みができにくいのではないかと思う。

韓国語はどうかというと、昔は日本と同じ、ハングルと漢字が混在していたが、最近はハングルだけで文章をつづるのが普通である。韓国内には
「漢字表記を広めよう!」
という団体と
「ハングルだけで表示しよう。!」
という団体と、二つあると聞いた。一般の人に漢字を書いてもらっても自分の名前は書けるが、熟語となったりすると、知らなかったり、間違って表記する場合が多い。現代の韓国の新聞は後者、ハングル文字だけの場合が多い。・・・ ハングルだけの文章も読みにくい。ひらがなだけの文字が読みにくいのと同じである。

 松島は海と島の割合が適度であるから美しいのだ。これが海ばっかりだと殺風景。島ばっかりじゃあ、山の中と同じになってしまう。

  竜安寺の石庭も同じ美的哲学から成り立っているのかも知れない。アメリカは芝だけの庭が多い。日本は苔の中や砂のなかに木や岩があるから、面白いし、美しい。

日本語の美しさ。
「松島や ああ松島や 松島や!」
である。